|
●NO9.「本物の日本酒の応援・・・酒販店は存在意義があるのか?」 2007年2月16日 |
|
日本酒の消費量低迷により、蔵元数も各々の生産量減っている。同時に苦楽を共にしてきた酒販店も減っている。数字的には酒販店の暴落の方が大きい。これは資産もさることながら、競争相手が多いからだ。蔵元は基本的には増やさないのが国の方針。新しい蔵ができたように見えても免許数は増えていない。 巷では日本酒ファンによる応援団的な活動が目につく。酒類業関係者にとっては頼もしく、ありがたい存在である。日本酒の応援について斬ってみる。 消費者に喜んで飲んでもらっているお酒は花であり果実である。いろんな汗と涙を積み重ねた結果が実を結んだり、花となって香りを漂わせている。花や果実は誰からも注目される的だ。しかもわかりやすい物体であるために目立つ。 この花や果実だけに注目している応援団が多い。蔵元の商品を世に広めれば応援している。蔵元のお酒の販売量を増やせばいい。ごもっともである。元がなくなては何にもならない。 しかし、花や果実が実るのは、根や茎があったからこそ。これがわかる方とわからない方がいらっしゃる。花や果実しか見えない人には、根や茎のことはおかまいなし。これは何もお酒だけではなく、すべての物事に通じる。親を大事にしないことが代表。余談だが、きき酒選手権で優勝者を1年がかりで育てた。まさに優勝者が花で私が根。根にねぎらいを傾けてくれた方はほんのひとにぎり。もうこりごりだと正直思った。これと同じ状態にお酒もあることが多い。 造り手と売り手と飲み手がそれぞれ尊重された独立した状態ならばベスト。売り手抜きで物が動いていく。どこにでもある中抜きだ。私の周りの例(悪例)を考える。 1. 私は丸河屋のお客さんにその方の好きなお酒の生産者を紹介する。
2. 丸河屋の知り合い、あるいは紹介という形で飲み手が飲食店と縁を結ぶ。
3. 蔵元との交流会があり、丸河屋は取引先の蔵元を紹介する。
飲み手であるお客さんは丸河屋に愛はなくとも、酒販店としての機能として丸河屋を使うのはいい。造り手である蔵元は酒販店の存在意義を認めなければならない。 ただただ飲み手と造り手にとっての便利屋として売り手が使われているだけならば、その飲み手も造り手も本物の日本酒への愛もなかろう。 日本酒の根っこや茎のことも想えるのが本物の応援であると思う。 |